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当会では基本稽古で、筋力では到底不可能なことを稽古しています。
たとえば、自分よりも体格が良く体重も重く筋力も強い人に両手首を掴まれたり、自分が掴んだり、手のひらで触れた状態から相手を動かすというようなことです。
型稽古ですので、動かす方向を決めて行います。
動かす方向は主に前後、左右、上下の六方向です。
相手が忖度して動いてくれる場合はともかく、真面目に抵抗されたらどんなことをしても相手を動かすことは出来ません。
相手は自分よりも筋力が強いのですから、動かそうとすると簡単に止められてしまいます。
しかし、動かす方法を指導すると、指導した人は全員一人の例外もなく出来るようになります。
ところが少し時間が経過したり稽古相手が変わると、これも一人の例外もなく出来なくなります。
また指導すると、すぐ出来るようになるのですが、これまたすぐに出来なくなります。
普通、私たちが一旦身体で何かを覚えた場合、それが出来なくなることはまずありません。
たとえば、泳げるようになったり、自転車に乗れるようになることです。
一旦泳げるようになったり、自転車に乗れるようになったら、たとえ10年ぶりに泳いだり自転車に乗っても、下手になっていることはあっても、全く出来なくなっていたということはありません。
しかし基本稽古の場合は、5年稽古しても6年稽古してもすぐに出来なくなるのです。
しかも出来なくなってから、出来た動きを自分で再現することが極めて難しいのです。
難しいと言うより不可能と言った方が適切かもしれません。
私は今日まで、これは常識外れの技術だから難しくて当たり前だと思っていました。
そのため、難しさについて深く考えることはありませんでした。
しかし、氣の力の正体が分かって以来、呆けた頭でいろいろ妄想しているうちに、基本稽古の難しさの正体が分かったのです(多分)。
基本稽古が死ぬほど難しい理由は、基本稽古は「人間本来の本能を駆逐して、新たな本能に入れ替える作業」だからです。
人は誰かに手を掴まれて何かをしようとする場合、必ず力を入れて(力んで)対応します。
基本稽古でも、手首を掴まれて相手を動かす稽古の場合、一人の例外もなく力んで相手を動かそうとします。
相手が自分よりも力が強くて、力んで動かしても無駄だと分かっていても力んでしまいます。
なぜなら、私たちの身体はそういう場合、防衛本能として「力んで対処する」ようにプログラムされているからです。
自分一人で動いている場合や、抵抗が小さい場合は力まない動きは何の問題もなく出来ます。
しかし、人から掴まれたような場合「力まないで対処する」というプログラムは私たちの身体にはないのです。
私が指導しているのは「掴まれた状態でも力まないで動く方法」です。
そのため、指導を受けて一時的に新しいプログラムである「力まない動き」が出来ても、時間が経過したり稽古相手が変わるとすぐに本来のプログラムが作動して「力んだ動き」になってしまうのです。
そして、力まない動きを再現しようとしても、本来のプログラムが作動中のため、自分の意志では再現できないのです。
本能に打ち勝つことがどれほど難しいことかは、たとえば泳げる人が自ら溺れようとしたり、自転車に乗れる人が自ら転ぼうとするのを想像すると分かると思います。
防衛本能が働いて、なかなか出来るものではありません。
基本稽古が死ぬほど難しい理由は、新たな本能を構築し、なおかつ本来の本能を駆逐しなければならないからです。
敵は本能寺にあったのです。
基本稽古は、自分の無意識・潜在意識との戦いです。
戦いに勝つ方法は一つしかありません。
勝つまで戦い続けることです。
前回のブログとほぼ同じことですが
「氣の力は相手の抵抗を引き起こさない力である」という認識は誤りだった、ということです。
「氣の力 合氣について」のところで「氣の力は相手の抵抗を引き起こさない力である」と言っていますが、これも誤った認識でした。
「氣の力」と「相手の抵抗を引き起こさない力」は全く別のものでした。
「相手の抵抗を引き起こさない力」は「筋力を使わない動き(力まない動き)」によって生まれる力です。
私の今の認識では、氣の力は「力まない動きによって生まれる力」をパワーアップするものです。
したがって、「力まない動きが出来ない場合」は氣の力の自覚の有無にかかわらず、氣の力が発揮されることはありません。
なぜなら、どんなに強大な氣の力があったとしても力んだ瞬間、氣の力はなくなってしまうからです。
氣の力、勁力、呼吸力、丹田力、中心力等のいかなる力も、力まない動きが出来ない限り使えないのです。
力まない動きが出来るようになることは、合氣上達のための一丁目一番地です。
しかし、一丁目一番地にたどり着くことは死ぬほど難しいことなのです。
氣の力を自覚して以来いろいろと検証中ですが、氣の力について誤った認識をしていたことが分かりました。
この分かったことも誤っている可能性がありますが、誤りに気づくことは進歩の証と前向きに捉えたいと思います。
このホームページにも、氣の力について誤ったことを書いていましたので訂正したいと思います。
「氣の力が使えるから技が出来る」という認識は誤りだったということ
合氣の稽古を始めてから今日に至るまで「筋力では到底不可能なことが出来るのは氣の力が使えるからである」と堅く思い込んでいたのですが、「それが出来るためには氣の力は関係ない」ことが分かりました。
「氣の力について 3」のブログで「筋力では到底不可能と思われることが誰でも例外なく出来るようになるのは、氣の力をすべての人が持っているからである」と、あたかも氣の力を使えるように指導したから基本技が出来るようになる、というようなことを書きました。
筋力で出来ないことが出来るのは、すべて氣の力が使えた結果だと思っていたのです。
ところが、氣の力をオフにした状態で基本稽古をやってみると出来るのです。
もちろん氣の力をオンにした状態でも出来ます。
基本稽古が出来るためには、氣の力の有無は全く関係なかったのです。
長年大きな勘違いをしていたことに気づいて愕然としました。
しかし、よくよく考えてみると、氣の力の有無が全く関係ないのは当たり前のことでした。
相手が抵抗するのは、自分が筋力を使って動かそうとするからです。
自分が相手を動かそうとして筋力を使ったら、その反作用として相手も押し返すことが出来ます。
相手から押し返されないようにするには。筋力を使わないで相手を動かせば良いのです。
自分が筋力を使わなかったら、相手も抵抗のしようがないのです。
筋力を使わない動き(力まない動き)をするのに氣の力の有無は関係ありません。
氣の力がなくても力まない動きは出来るのです。
氣の力の正体に気づく以前と、気づいた以降の大きな違いは、重力の反作用の力(以下「上昇エネルギー」という)を自分の意思で自由にオン・オフが出来るようになったことです。
上昇エネルギーをオンにした状態とオフにした状態の違いを少し書いてみます。
1 身体が緩まない
上昇エネルギーをオンにすると、身体を緩めてダランとしようと思っても、身体が緩まなくなります。
脱力しようと思っても、身体がまるで膨らんだ風船のようになって脱力できないのです。
その状態でオフにするとその瞬間、風船がしぼむが如く身体がしぼんで足下から崩れていきます。
2 腕が伸び伸びとして動きが大きくなる。
オンにした状態で腕を回したり、木刀の素振りをしたりすると、軽くやっているにもかかわらず腕が伸び伸びとして動きが大きくなります。
オフにした瞬間、腕が縮んで動きが小さくなります。
3 身体と腕が軽くなる。
オンにした状態で練功をすると身体が軽く感じられ、特に腕の浮力が今までになく強くなります。
腕の重みがなくなって腕が空中に浮揚しているような感じです。
オフにした瞬間、腕は重くなって落下します。
もし、氣の力の正体が重力の反作用の力だとしたら、氣の力は老若男女関係なくすべての人間が持っている力と言うことになります。
当会の基本稽古は、筋力では到底不可能と思われる内容ですが、やり方を指導すると一時的にせよ誰でも例外なく出来るようになります。
以前は、氣の力のことを「私たちの誰もが持っているにもかかわらず、ほとんどの人が気づいていない力」と言っていましたが、これは指導すると誰でも出来るようになるので、誰もが持っている力と言っていただけで、氣の力の原動力が何かが分かっていた訳ではありませんでした。
氣の力がすべての人に作用している反作用の力だとすると、誰でも出来るようになることが納得できます。
師範に「どれくらい稽古をしたら自覚できるものですか」と聞いた時、「今日自覚できるかもしれないし、何年、何十年かかるかもしれない。自分次第です。」と言われましたが、氣の力が本当に重力の反作用の力だとしたら、すでに自分の中にあるものに気づけば良いだけですから、そう言う以外に言い方はなかったのだろうと思います。
私の場合は、1990年に入門して、仕事の都合で3年ほどしか稽古できませんでしたが、自覚するのに30年以上かかってしまいました。
しかしよく考えてみると、何かが上昇する感覚は何年も前からあったような気がします。
なぜ今まで気がつかなかったのか不思議なくらいです。
単に鈍いだけかも知れません。
地球には重力があります。
「重力」とは「地球上の物体に下向きに働いて重さの原因になる力」(広辞苑)です。
私たちの身体には常に地球の中心に向かって引く力が働いています。
私の体重は約60キロですが、逆に言えば両足で立っている場合、何もしなくても60キロの力で、常に地球の中心に向かって押し続けていることになります。
また、ご存じのように作用反作用の法則というものがあります。
「ある物体が他の物体に作用を及ぼすとき、それとは逆向きで大きさの等しい反作用が常に働く」(デジタル大辞泉)というものです。
私が60キロの力で地球を押し続けているということは、私も地球から60キロの力で押し返されているということです。
つまり、私の身体の中では、60キロの力が足の裏から頭頂に向かって常に上昇し続けているということです。
何をアホなことをと思われる方がほとんどだと思いますが、氣の力の正体は
「自分の身体が地球を押している力の反作用として働く力」だったのです。
当会では氣の力について、「氣の力 合氣について」のところで述べているように「氣の力とはしっかりと立ち、しっかりと座り、しっかりと歩くことができて初めて生まれる力だと考えています。」としています。
しかし、しっかり立つことでなぜ氣の力が生まれるのかということについては明確に分かっていませんでした。
ところがつい最近のある日、何かが足下から上昇しているのに突然気づいたのです。
それは音もなく、色もなく、匂いもなく、熱くもなく、冷たくもなく、痛くも痒くもありません。
何も感じないのですが、確かに上昇するものがあるのが分かったのです。
私は自分が自覚したことを忽然と悟りました。
氣の力の正体が分かったのです。
拳法道場に入門した当初、師範に「氣の力とはどういうものですか」と聞いたところ「自覚するしかありません」と言われ「何を自覚するんですか」などと馬鹿なことを言っていたことを思い出しました。
”タキミカ”こと瀧島 未香(たきしま みか)さんは、1931年1月15日生まれ。
90歳の日本最高齢フィットネス・インストラクターだそうです。
65歳でジムに通い運動を始め、79歳でパーソナルトレーニングを受けて、87歳でフィットネスインストラクターに就任されたということです。
最近の新聞広告で見るまで、全く知りませんでした。
ネットで動画を拝見しましたが、90歳とは信じられない動きでたまげました。
私にはとても真似ができません。
びっくりする画像もたくさんありますが、なかでもウエストポーチをつけて颯爽と歩く姿には、感嘆するしかありません。
若い女性でもあれほど見事に歩ける人は多くはないと思います。
自分の歩き姿と比べると恥ずかしい限りです。
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「年齢なんて、ただの数字」というのが信条だそうです。
生涯現役を体現されているタキミカさんにはたくさんの希望と元気を頂きました。
タキミカさんを目標に頑張りたいと思います。
毎朝、白いご飯と温かい味噌汁が目の前に出てきます。
ある日ある時これは奇跡だと気付いたのでありました。
今まで当たり前に思ってきたことが、とても感謝に思えてならなかったのです。
日に三度のご飯が食べられ、空気も水も光も平等に与えられているのに、どうして人は不平不満ばかり言っているのだろうと思ったのです。
大峯千日回峰行滿行者 塩沼亮潤大阿闍梨の言葉
稽古休止を余儀なくされてからもうすぐ1年になります。
なかなか稽古を再開できる状況になりませんが、毎日三度のご飯が食べられるうえに、毎日お風呂に入り、毎日暖かい布団の中で寝られて、毎日一人稽古を存分に出来ることは、本当に奇跡のような日々です。
いつまで続くか分かりませんが、この恵まれた環境に感謝しながら、稽古再開できる日まで一人稽古に励みたいと思います。
いつになったら稽古を再開できるか、目途が立たない状況が続いています。
期限がわからないというのは、計画も立てにくく、精神的にもなかなかきついものです。
動かない身体の重要性は、分かっているつもりでしたが、江夏師範の「合する合気の道」に書いてあるクレーン車の例えを読んで、ピンと来るものがありました。
つまり、どんなに力の強いクレーンでも土台が動けば、その力を発揮することが出来ないということです。
合気の場合も高度な技術を持っていても、土台である身体が動けばその技術を発揮することは出来ません。
動かない身体を作るには鍛錬を続けるしかありません。
「七十歳までは、やれば筋肉もついてくる。
それまでに身体を作ってしまえば、このように八十歳を過ぎても全然衰えないのだ。」
「人間は生きている限り変わることができるのです。
生きているということはそういうことでしょう。
私の年になるまで鍛え続けている者はいないだろう。
力は無くなってきても、鍛え続けることによって何かが出てくる。」
佐川幸義先生 八十六歳の時の言葉
「老人閑居して不善をなす」ことにならないよう、何が出てくるかを楽しみに一人稽古を続けたいと思います。